知ること、そして考えることには、愉悦がある。とはいえ、その愉悦を味わうためには、あるいは愉悦を実感してもらうには、かなりの工夫が必要なようだ。知ること、そして考えることには、愉悦がある。とはいえ、その愉悦を味わうためには、あるいは愉悦を実感してもらうには、かなりの工夫が必要なようだ。つまり、何であれ勉強すれば、悦びを覚えるとか、何であれ知識を提供すれば、楽しんでもらえる、というようにはなっていない。おそらく、それは、人間に、知への欲望のようなものが本来的には備わっていないことによる。知に関しては、人間は、すぐに飽和状態になってしまう、つまり満腹してしまうのである。学校の勉強の大半が辛いのは、すでに満腹になっているところに、さらに食事を詰め込むようなものだからだ。だが、その飽和状態を越えたところに、実は、もっと大きな快楽が、知の悦びがある。しかし、飽和状態を越えているのだから、その悦びに至るまでには、そうとうな工夫が必要になる。私としては、本書で、そのような工夫をしたつもりである。『量子の社会哲学』「あとがき」より