発売中の「at+」14号(特集 社会の起源)に、「生命から社会を考える 適応度の物語とは別のかたちで」と題して生物学者の福岡伸一さんとの対談が掲載されています。
福岡 生命というのは鳥瞰的に見ると、背骨があって、両側に臓器がきちんと配置されているように見える。丹下建三が都市計画をつくるときに軸線を引いて都市を構築したように、設計的にできたように思えてしまう。だけど、じつは発生的にできているわけです。つまり個々のパーツは、ほとんど全体像が見えないまま、隣近所の関係性だけを頼りにしてできた。それを事後的に見ると、設計的に見える。だから、遺伝子は生命の設計図(ブループリント)という言い方があるわけです。そこにも錯覚を生じかねない言葉の用法がありますが、遺伝子自体に命令は書き込まれていないんです。時間を追って、「次はこうしてああしろ」といったフローチャートなんてものはそこにはない。
私の感覚では、遺伝子というのは、むしろ「カタログ」に近い。
(略)
大澤 福岡さんの本にも書かれていましたが、科学的説明のウィークポイントになっているのは、時間という現象なんです。先ほど述べたように、包括的適応度の概念も、つまりは歴史の終わりから、事後の視点から見ている。すべてが終わってしまったあとで、もはや時間の進行がない状態で、考えているわけです。しかし、僕らを取り巻くあらゆる現象というのは、時間の渦中にある。これをどうとらえるか。
学門の基本モチーフ
DNAというカタログ
適応度の物語には限界がある
私たちの生命は時間のなかにいる
エントロピーを考える
何も起きなかったというドラマ
主体性と選択
言葉は宣言である
目次は詳細は下記の太田出版HPでご覧ください。
http://www.ohtabooks.com/publish/2012/11/08000026.html