発売中の「群像」2014年3月号に連載評論「〈世界史〉の哲学」第59回近世篇5「「法の支配」のアンチノミー」が掲載されています。
前回、紹介したイスラム法の法源と対比してみると、疑問はさらに先鋭なものとなろう。イスラム法の場合には、神の使徒(ムハンマド)への啓示に、直接的・間接的に関係づけられることによって、妥当性を確保していた。いくつもの法源は、神の啓示に結びつけるための必死の努力の産物である。神の言葉に源泉をもっていることだけが、法の正当性を担保していたのである。
これと、中世のキリスト教会とその周辺で起きたこととを比べてみるとよい。ヨーロッパ中世では、神の啓示に遡及して、法を基礎づけようとする努力はなされていない。繰り返し強調しておけば、ユスティニアヌス法典もギリシアの古典も、神の言葉を記したものではない。しかし、どうせ神の言葉と関係がないものであれば、中国の皇帝のように、自分の都合のよいことを命令し、法としてしまえばよいように思うのだが、そうはならないところが重要である。それでは何がなされていると見なせばよいのか。
(「3 解釈者革命、再び」より)
1 天命の支配
2 「法の支配」のアンチノミー
3 解釈者革命、再び
4 コモン・ローの「コモン」
5 解読できない聖典/紛失した聖典
もくじなど「群像」の詳細は下記の公式HPをご覧ください。
http://gunzo.kodansha.co.jp/27915/30219.html