発売中の「群像」2014年3月号に、文芸評論家・大澤信亮さんとの対談が掲載されています。東浩紀さんなどを招いた大澤信亮さんの連続対談の最終回です。
対談「キリスト教と資本主義『〈世界史〉の哲学』考」
(略)
真幸 「東洋篇」で主に論じているのはインドと中国についてですが、アジアにあるからという理由で、たまたまこの二国を選んでいるわけではありません。両者を一つの視野に収めることに、論理的な意味がある、と考えたからです。どうしてか。
ちょっと変な理由だと思われるかもしれませんが、インドと中国という二つの文明の間に、あまりに影響関係が乏しいことが、まず興味深い。インドと中国の間には険しい山がありますが、グローバルな視野でとらえれば、あるいはユーラシア大陸の全体の中でみれば、物理的にはごく近い関係にある。それなのに、ほとんどゼロと言ってもよいほどに影響関係がないのですね。これはふしぎなことで、何か理由があるのです。
(……)
ところが、北伝の一部、つまり仏教の北西への伝播の経路が、まるで見えない壁があるかのように、あるところではじきかえされる。つまり、経路が大きく東に折れ曲がってしまうのです。その東へと跳ね返された経路の上に、中国→朝鮮半島→日本があるわけですが、ともかく、仏教のような特別に浸透力のある文化要素すらも突き破ることができない見えない壁がある。それを僕に「一神教の壁」と呼んでいます。ユーラシア大陸で、一神教の壁の西側は、だから、かなり異質な世界だと考えないとならない。しかし、壁の東側は、仏教の浸透を許すような、ある同質性のようなものがあるはずだ。この点でも、インドと中国を一緒の巻で論ずることが正当化されるわけです。
(……)
信亮 「宮澤賢治の暴力」でも書いたのですが、僕は食べることが暴力の根っこにあると感じ、いわば絶食的に食事を制限したり、菜食にして精進期間を設けたりと、食をどう捉えるか、修行のようなことをやっていた期間がありました。自らの暴力を過剰なまでに内省して菜食主義になった賢治に自分を重ねながら書いたんです。
(……)
宮澤賢治は日蓮主義の法華信者です。ですから、『銀河鉄道の夜』の賢治のもともとの発想としては、キリスト教的な自己犠牲や、あるいは名付けられてもいない無数の自己犠牲や、科学的な知や何やらが、究極的には「ナム・サダルマ・プフンダリーカ・サスートラ」(南無妙法蓮華経)に行き着く、というものでした。それが何度も改稿を重ねる過程で、結果的に仏教がキリスト教をのみ込んで終わる形にできなくなってしまった。(……)賢治はキリスト教を異物として食べてしまい、消化不良を起こしたというか、もしかしたらキリスト教の論理にやられたのかもしれない、とも思います。
(……)
真幸 フッサールの現象学は、「食べること」にはほとんど関心を持っていません。人間と世界との関係を規定する精神のモデルとして彼が考えているのは「見る」という体験です。「食べる」には全く関係なく、何かを「見る」体験の中に、「志向性」の原型を見出しています。フッサールを継承して、さらに総合的な哲学にしていったのはハイデガーですが、ハイデガーの場合は、見るということを越えて、物や世界に能動的に関わるということについて考える。だから、手元にあるものが、目的と手段の連鎖の中にある道具性を帯びるかどうか、ということがハイデガーの哲学では話題になるわけです。しかし、そのハイデガーも食べるということは話題にしていない。(略)
問い続ける力
キリストの死というミステリー
能動と受動の混乱
神として落ちてきた文字
宗教としての資本主義
対談は日本映画大学「ジャーナリズム論」で行われた対談をもとに加筆・修正したものです。
「群像」2014年3月号の詳細はこちら
http://gunzo.kodansha.co.jp/27915/30219.html