【対談】平野啓一郎さんとの対談「予測不可能な未来を生きる」

発売中の「群像」2014年12月号に、ジュンク堂書店池袋店で行った平野啓一郎さんとの対談「予測不可能な未来を生きる」が掲載されています。

大澤 (略)人間を未来というものに関わらせようとしたときに、個人の人生は有限であるという事実と、人生を超えた時間とをどう関係づけるかという問題が出てきます。抽象的に言えば、有限性と無限性の関係という主題ですね。
平野 (略)テクノロジーの進歩がものすごく速くて、しかも世界中がリンクされてしまった今、言ってみればパラメーターだらけで、どこで何が起こって、どうなるかという予測が極端に難しくなっている。そこでサバイブしていくために、ゼロ年代に言われた「選択と集中」という発想ではもう無理です。資産だってリスクへッジするために分散投資する。分人化は、自分のアイデンティティーのよりどころと収入源をできるだけ複数化するという、生きていくための現実的な発想の一つです。〈「資本主義を生んだキリスト教の時間感覚」より〉

大澤 (略)人間はいくら分解していっても、必ず何かプラスαの残余感があるということです。例えば大澤は社会学者だ、いや、哲学者もやっている、それだけじゃなくて一人の男として恋人がいるとか、誰かのあまり従順でない息子だとか、といくら挙げていっても、まだ自分は全部を定義された感じじゃない。俺はそれだけじゃないぞみたいな気持ちが常に残ります。考えてみると、この何とも言えぬプラスαだけが唯一の「私」の根拠なんですよ。
 しかし、その何とも言えぬプラスαは、分人化してみるからこそ初めて発見できるのです。個人を分人へと分解していくベクトルと、しかしそれに尽きないプラスαという、ある種の継続と関係するようなエレメント。両方が同時に出てくるところが非常におもしろいと思う。(略)
平野 (略)僕が自分の中の残余みたいなもの、汲み尽くされてないものを何か具体化したいと思ったときに、それは自分だけではなれないというか、関係性の中でしかそうなれないと思うんです。例えば全く違う自分になりたいと思ったときに、鏡の前でそう念じても無理で、何か今までと違う人との関係性の中で、あるいは違う場所の中でしか新しい自分になれない。それが、僕が他者性を擁護する時の根拠なんです。〈「「個」を分解した果てに残るもの」より〉

分人主義とポストモダニズム
資本主義を生んだキリスト教の時間感覚
無限の中に有限をはらむ資本主義のシステム
「個」を分解した果てに残るもの

対談は、2014年10月18日ジュンク堂書店池袋本店にて、平野啓一郎さんの新刊『「生命力」の行方』刊行記念として行われました。

「群像」2014年12月号の目次などは下記のHPでご覧ください。
(連載評論「〈世界史〉の哲学」は休載です)
http://gunzo.kodansha.co.jp/27915/38607.html