成田龍一さんとの対談が『現代思想』に掲載されています

発売中の『現代思想』2014年1月号「現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ」に歴史学者の成田龍一さんとの対談、「普遍とリアル」が掲載されています。

大澤 (略)しかし、社会構成主義が最初に持っていた批判的な強いインパクトは、時代のなかでその意味合いを失っていく。
成田 ツールっぽくなるのですね。九〇年代半ばには有効であった方法が二〇〇〇年代後半になると説得力を欠いていくようになりました。
大澤 社会構成主義的な感覚が、学問以前の常識になってきてしまったわけです。そういう状況の変化のなかで、思想の前衛のほうは対応がやや遅れたという感じがします。
 文化相対主義や社会構成主義、あるいはカルチュラル・スタディーズには大きな意味があったのです。しかしそれが持っていた起爆力は、社会そのものの変化のなかで、次第に失われてきた。そうしたなかで、もともとの起爆力が、そのまま維持されていると思いすぎると、思わぬ失敗をします。
(略)
成田 大澤さんが言われたことを、もう少しポジティブに言い変えてみると、ネオリベ全盛の時代において、どこに批判の根拠をつくるのか、どこを批判の対象とするかということを、後期池上[*現代思想元編集長]時代は問題にしていたということですね。政治的なるものがどこにあるのかを問うていたと思うのです。そのとき、政治的なるものの検出の仕方が少しツール化してきているがゆえに——大澤さんは、ポリティカル・コレクトネスと明快に言い切られましたが——、到るところに政治があるという印象を生んだのではないでしょうか。しかし、それは同時代をいかに批判的に捉えるかという背骨があったがゆえの問題とも言い換えられるでしょう。
大澤 そうですね。ただこれは『現代思想』や池上編集長といった個人的な問題ではなくて、時代の問題です。別の言い方をすれば、その時期は政治というものが何かわからなくなっていた「政治の喪失」ということがあって、そのために政治を救出しようと、あの手この手で狙っていたのだけれど、なかなか難しかった。しかしそれは『現代思想』の能力が足りなかったわけではなく、時代の問題です。政治を蝕んでいく時代になっていったわけで、本当の政治はどこにあるのかという問いの下、文化を政治として考えていったわけですね。
成田 なるほど、そうですね。今までは『現代思想』の“思想”に重点が置かれていたのが、“現代”に比重がかかるようになり、現代をいかに文化的、政治的に、あるいは抵抗の文脈において捉えるのかというところに関心が向ったのですが、現代の進展のなかでの「政治」というか「政治的なるもの」の模索であったのですね。

掲載されている対談は、2013年1月29日ジュンク堂書店池袋本店、および同年10月に青土社で行われた対談をもとに再構成したものです。『現代思想』2014年1月号の詳細は下記のHPよりご覧ください。
http://www.seidosha.co.jp/index.php?9784791712731