朝日出版社第二編集部ブログでの時評第4回を公開しています。
「原発問題と四つの倫理学的例題」
(略)哲学的・倫理学的にも難しいがゆえに、政治的にも難しくなる問題というものはたくさんある。というより、政治的に解決ができなくなる問題の大半には、背後に哲学的な難問がひかえている。たとえば、脳死問題は、「人間とは何か」とか「生命とは何か」という哲学上の問題が解けないがゆえに、法律や政治の場面でも混乱が続くのである。あるいは、市場への国家の介入がどの程度が望ましいかという問題は、哲学的には、ロールズのリベラリズムとノージックやロスバードのリバタリアニズムの対立へと転換することができる。社会保障のための資金を、保険方式によって調達するほうがよいのか、税方式がよいのか、また保険方式だとしても、社会的保険(所得に応じて拠出し、必要に応じて給付する)か、私的保険(リスクに応じて拠出し、拠出に応じて給付する)か、といった論争も、社会主義、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムを巻き込む哲学的な難問と並行している。
だが、原発の問題は、一見、哲学的・倫理学的には最も易しい問題である。それなのに、日本人は、これを最も難しい問題(ソフィーの選択)のように扱っている。つまり客観的には偽ソフィーの選択であるような問題を、主観的にはソフィーの選択に見せてしまう、変換のメカニズムXが働いているのである。
偽ソフィーの選択 → (X) → ソフィーの選択
この変換のメカニズムXを解明しなくてはならない。ここにこそ、原発問題の謎の核心がある。
註)「ソフィーの選択」=ソフィーがナチの将校に「上の子か下の子か、どちらをガス室に送るか選べ。さもなくば両方の子をガス室に送る」と選択を迫られるという倫理的問題設定。それに対して「偽ソフィーの選択」は、強盗に「子どもかエアコンか、どちらかをよこせ。さもなくば子どもを殺しエアコンを破壊するぞ」と強迫される。その時にどうすべきか?という「ソフィーの選択」の改訂版設定。くわしくは本文を参照。
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