小林康夫さんとの共著『「知の技法」入門』(河出書房新社)が刊行されました。
小林 (略)「歴史」と「哲学」というのは、世界はいったいどのようにできているのかという問いですよね。一つひとつの個別世界はわかった。だけど、それを貫く共通性がどこかにあるだろう。だって、私は自分とはなんの関係もないその特異世界をこんなにも自分のものにできるのだから。歴史的共通性さらに超歴史的な共通性もやっぱりあるんじゃないか。それをどのように自分の中に取り込むか、それに照らして自分の世界をもう一度どう点検するか。そういう問いが浮上しますよね。それはある種の社会の「鏡」としての「大学的なもの」の機能でもあり、人文書というものの存在理由でもあると考えますね。
大澤 僕の人文書の定義とも共鳴する話ですね。人文書を成り立たせているのは、得異性と普遍性ーー小林さんの表現だと「共通性」ーーとの間の奇妙なつながりだと思うのです。人には、まずそれぞれに特異な経験がある。だから、それは、孤独と言えば、孤独なことです。その孤独を表現しているのが、文学だということになります。ただ、ここで驚くべきことは、まったくの孤独に照準している文学作品を、僕らが読んだ時に、感動し、共感さえしてしまう、ということではないでしょうか。そこには、特異で孤独な経験や世界しか書かれていないはずで、読んでいる者の人生や背景とは時に似ても似つかない。にもかかわらず、読んで感動してしまう。はっきり言えば、文学の表現が、特異で孤独であればあるほど感動する、と言ってもいいくらいです。どうしてなのか。どうして、孤独が普遍性をもつのか、と問うと、今度は、それが哲学になったり、歴史学になったり、社会学になったりする。つまり、(狭義の)人文書ができあがるわけです。(第1章「人文書」入門 より)
大澤 特に若い大学院生クラスで、今後きっちりした研究をしたい人、研究を職業にしたい人に僕が勧めるのは、読書ノートももちろんなんですけど、わりに長めのレヴューをたくさん書いてみるということです。気に入った本についてのレヴューです。元の本の長さによってレヴューの長さもいろいろなんだけど、標準的に考えられるのは、三百ページくらいの本で、それが気に入ったとしましょう。たとえば今、新聞書評だと八百字くらい、「読書人」のレヴューを見てもその倍くらいの長さですが、そういう短いレヴューではなく、四〇〇字詰めの原稿用紙で二、三十枚のかなり長めの書評を書いてみるのがとても良い訓練になると思います。(略)(第2章「読書の技法」入門 より)
小林 今のお話[たまたま同じ日に観た2本の映画に違和感を感じ、違いを見出してなんとか理解したいと強烈に欲望し、説明の仮説にたどり着くこと]はとても重要なことで、僕流に言い直すならば、「知は知識ではなくて行為だ」ということになりますね。この「知は行為である」というのは、かつて二十年くらい前に、ベストセラーになりましたけど、『知の技法』(東京大学出版会)という本をつくった時の中心的なテーゼだったんですね。(略)
だから読書も同じことだと思いますね。本を読むというのは、既にある知識情報を頭の中に入れるということでは全然なくて、自分が何らかの仕方でプレイして、行為して、アクトしていることなんだ。そのことの自覚があるかないかで行為の質が変わってくる。行為するなら、それは楽しい行為であったほうがいい。行為の究極はダンスですよね。ダンスというのは目的のない行為であり喜びのためだけの行為だから……「知」という行為もどこかでダンスみたいなことに繫がっていく。知は踊るんだと思いますね。
大澤 たしかにそうですよね。行為そのものにしか喜びってないですからね。(Ⅲ「知の技法」とは より)
〈目次〉
Ⅰ 入門篇
第1章 「人文書」入門 タイタニック号の乗員のためのブック・ガイド
第2章 「読書の技法」入門 速読、精読、ノート法
Ⅱ 理論篇
第3章 誰にもわかる「実存主義・構造主義・ポスト構造主義」 二〇世紀の思考の大きな流れを知る
第4章 自然科学と人文科学のインターフェース 意識と物質のミッシングリンクを考える
Ⅲ 「知の技法」とは何か?
詳細は下記の河出書房新社HPをご覧ください。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309246772/